「書評」

 

第6号

名村静美氏に聞く訪問看護の現場から=石渡均「澪」編集人

 文芸同人誌「」第6号では、前号に続き「食と健康を伝え文化を創造するフリースペース」「静美杏(よしみあん)」を運営する名村静美氏の談話を、石渡均氏(雑誌「澪・MIO」編集人)が記事にまとめている。《参照:世界と日本人!放射線被ばくの見方から「澪・MIO」5号》
 今回は「人生の最後を看取る、訪問介護の実態!」である。前回もふれているが、名村氏は、長崎県出身の母親が11歳のとき、爆心地から20キロ以上離れていたが、被ばくしたために、被ばく者二世として生まれた。幼少のころより、病弱であったことから、食と健康についての関心があり、母親と同じ看護師になった経歴をもつ。
 静美杏の運営で見えることは、世界に先駆けて、高齢者社会となった日本の課題に2025問題があるという。団塊の世代が高齢者団塊となって、「老老介護」「病病介護」となっている。その初期段階の現象が、介護業界に現れている。そして、人生の最期の看取り方と、終活における当事者の事例が、名村氏の談話でいくつか紹介されている。
 普段は、他人事のように読み流したり、過剰な情報のなかで無関心でいても、いざ当事者となれば身に染みて、参考になるのがこうしたテーマであろう。
 文芸同人誌というと、自己表現に片寄って、自己の体験だけの「個人的つぶやき」と受け取られるような、表現の形をとるのが多い。しかし、それは読者がいらないということではななく、同人誌仲間を意識して書かれたものになりがちであるということであろう。
 その中で、発表の場を自分たちで費用負担することの強みもある。「澪」では社会的なテーマをもって、取材し世間に訴える要素を入れている。社会的なテーマを語るのは、社会評論でもできるが、それは新聞やテレビで報道されたものを、情報源とすることならば、恣意的に作られた社会問題に振り回される可能性は、否定できない。メディアの報じた情報から得たものは、あくまで二次情報であって、それを加工したものが、評論である。
 それも悪くはないが、そればかりでは困る。自らが取材し確認した事実を情報にする第一次情報源としての役割を持てば、個人的つぶやきから、おのずと、社会に向けて伝えるという姿勢が読者に伝わる。
 文芸同人誌というと、趣味人の世界で社会性を持たないというイメージ。もうそろそろ何らかの脱皮をしても良いのではないか、と思う。「澪」の試みも社会的な大資本と、異なる分野のジャーナリズムの可能性を示しているように思う。
「暮らしのノートITO」 2015年10月29日

 

 本号の石渡均氏の取材インタビューをもとにした特集「人生の最後を看取る、訪問介護の実態!」は、「暮らしのノートITO」で紹介している。大資本の新聞や雑誌ではあまりやらない視点での、自由なジャーナリズム精神を感じさせる。

 

【詩「二千十五年のヴォーカリーズ~できればラフマニノフの『ヴォーカリーズ』を聞きながら」田村淳裕】

若かりし頃の安保騒動の終焉。1970年代を共に過ごし、海外にわたってから帰国した友人Sへの葬送詩であろう。人は時代のかけらをかかえて去って行く。

 

【評論・映画監督のペルソナ「川島雄三論Ⅵ最終回」石渡均】
 川島雄三の足跡を追って下北半島まで出かけて、彼の映画製作の精神を追うというか、忖度する余地を作り出していく、という姿勢が独創的に感じられた。その点で、とくに前回と今回は興味深かった。
 川島は山本周五郎原作の「青べか物語」を映画化しているようで、シナリオと小説の一部を引用しているのが、面白く読めた。細部にふれているときりがないが、映画ファンでなくても、それぞれに想いを持たせるものがある。

 

【評論「ポーの美について(ノート)Ⅴ最終回」柏山隆基】
 「ワーズワースの『序曲』(特色、コールリッジによる評価、政情への幻滅と魂の不滅)、ポーとワーズワースの両者のプラトニズム、ポーの本領、など」とある。いわゆるロマン派の話で、ポーとの関係がどのようなものか学べる。

 

【「最後の洞窟」柊木菫馬】
 「君」という人称で書かれているので、二人称小説と思わせる。しかし、次第に、交通事故で死者となった「わたし」が、同じ事故で生き残った友人を君をとして語っているのだとわかる。凝った手法である。母親との近親愛の相関関係などを絡めて、お話として成功させているように思える。
 森の木や雑草など植物を風景描写に取り込んでいるのが効果的。3人しか登場しない作品世界でのちょっと変な話に、説得力を持たせている。車谷長吉に傾倒しているそうであるが、たしかに、妙に肌にまとわりついて惹きつける文章運びには、その影響があるのかもしれない。

「文芸同志会通信」 2015年10月31日