本誌の【「大池こども自然公園生態系レポート<放射能と野鳥編>」鈴木清美】に関しては、放射能汚染と野鳥の生態を自然公園に観る=鈴木清美氏 に紹介した。
【「クラシック日本映画選9-天国と地獄」石渡均】
 今回は、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画「天国と地獄」を制作側からみた、一種の専門的な裏話が記されている。黒澤映画と言えば、世界的に有名だが、その特徴のひとつである証明の技術による表現効果の秘密が記されている。集中的な画面効果の技術に証明やカメラの工夫があることがわかる。かつて映画界で天皇と呼ばれたのが、渡辺邦男、黒澤明、撮影監督の宮島義男だという。宮島撮影監督は、小林正樹監督の「切腹」を撮ったひとだという。個性的なカメラワークに頷けるものがある。俳優論があって、黒澤の演技指導の細かさに対し、溝口健二は、俳優に自ら役作りを発見させるという、やり方の違いがあるという。この辺は新藤兼人の書き物と一致する。また、面白いのは、三船の滑舌の悪さで、それを気にした小林正樹監督は、たまらず音声修正技術を使ったら、三船が腹を立てたという。確かに、彼が黒澤映画によって、世界の大スターになった要因には、映画のセリフが翻訳字幕や吹き替えの効果があったように思う。自分が思うに、黒澤と三船の作日には、セリフの字幕を付けて初期作品から上映したら、若い人たちにも支持されると思う。特に菊島隆三の脚本が入ったのは、すごい。
 本作では「天国と地獄」の脚本、カメラ、音声、音楽、三船、仲代達也、山崎努など、総合芸術の見どころを、まるで観賞しているような話の運びで、読む目をそらさせない魅力でかたる。自分は、20代の頃仕事場が京橋に近いところにあって、今は国立アーカイブ館の前身と思われる近代映画館に、夜に観賞した時期があった。小津安二郎の無声映画から観た記憶がある。黒澤作品では、「酔いどれ天使」の水たまりの前で、結核を病む三船が塀に寄りかって佇む場面はまさに、孤独の詩情があふれているのを思いだしてしまった。
【「ハイデガーを想う(Ⅱ)下(その3)『技術への問い』を機縁に」柏山隆基】
 「存在と時間」が愛国者でドイツナチスの党員であったことは、知られているが、その精神的な基礎に時流と彼の思想の底流とが、合流したものらしい、とわかる。ハイデガ―が「老子」に親しんでいたということは、東洋思想のなかに、存在の意味をさぐる価値があったと読んだ。自分は、道元禅師の思想をドイツの学者が時間論にとりあげているのを読んだ記憶がある。自分は日常生活は、マルクスやヘーゲルの重視する関係性の世界だと思う。そして、個人としてはそれを超越した形で、宇宙存在の認識者としての生を味わうものという感覚があり、一般人としての有象無象(マルチチュード)と「私」としての唯一者との間を行き来する存在と認識する。このような簡単にまとめてしまうのも、マルクス主義から「金剛般若経」の座禅思想まで触ってしまう文学的性癖による。自己流の読み方なので案外、見当はずれなのかも知れないが…。あとがきに、羽田飛行場の空路が品川区上空にかかるので騒音の話があるが、大田区でも海から滑走路に入るのに、それが多摩川の川崎に寄るので、すでに試験飛行をしているらしく、こちらの空に爆音が響くようになった。これも、日米航空協定が、他国と比べ格段に隷属してるためで、アフガニスタンですらこんなに隷属的な協定ではなく、対等な協定をしているのである。これを屈辱とせずに、他国をとやかくいう国民性が自分は好きでない。他国の反日の言い分はもっともである。また、国際的にも日本はそれほど信用されていないであろう。国際紛争で争っても、日本は負ける。それは、これからあらわれてくるであろう。ハイデガーのナチス党員時代にとやかく言う気はまったくない。

文芸同志会通信